08 特別授業

魚の鮮度を化学する

熟成と腐敗

 魚の身肉の中には、呼吸によって作られ、筋肉の収縮や発熱に大きな役目を果たすATP( アデノシン三リン酸 )と呼ばれる物質が含まれています。ATPは鮮度に直結する成分であり、分解して時間とともに増えてくるイノシン酸( 旨味成分 )とヒポキサンチンの割合は、鮮度の低下をあらわす指標( K値 )としても利用されています。
 生きている間は筋肉が疲労しても、呼吸によってATPが補給され、また元の状態に戻ります。しかし、死んでしまって新しいATPが来なくなれば、細胞内の成分を消化するしかありません。
 ATPが枯渇すると筋肉を構成するタンパク質のアクチンとミオシンが結合します。これにより死後硬直が始まり、ADP → AMP → IMP → HxP → Hxへと一方通行の自己消化反応が進みます。
 魚肉は死後硬直後から細胞内の酵素が働いて、旨み成分のイノシン酸が増えてきます。これは人間にとって都合がよい反応なので「 熟成 」と呼ばれます。
 硬直が解けてからは、消化器の中にいた細菌や、外部から付着した細菌の持つ酵素によって分解が進みます。これが「 腐敗 」です。
 死後硬直に入るまでの時間を遅らせ、硬直している間も低温にして自己消化を抑えることが、鮮度維持の重要なポイントになります。
 釣られたまま常温で放置されて死ぬことを苦悶死と呼びますが、死ぬまでの間にATPが急激に消費されるため、すぐに死後強直が始まってしまいます。苦悶死と反対に、生きている状態から即殺された魚は無駄にエネルギーを消費していないため、身肉中にまだATPの含有量が多く、死後硬直が始まるまでの時間を延ばせます。
 ATPは筋肉のエネルギー源です。魚を肉体的、精神的に疲労させることで貴重なATPが消費されます。浪費を防ぐには、鈎がかりしたらストレスを与えないよう、また余計な運動をさせないように、できるだけ短い時間で取り込んでください。
 産卵直後や栄養不足で痩せたアジはもともとのATP量が少ないため死後硬直が早く始まります。太ったアジや大型アジの場合は、筋肉の絶対量が多いだけに、硬直が始まるまでの時間にゆとりがあります。

赤身魚は足が速い

 アジやサバ、サンマなどの赤身魚( 青魚 )は身が柔らかく、積み重ねたりすると身崩れしてしまいます。魚屋さんの店頭で、ブリやマダイは氷の上に置かれているのに、アジやサンマは氷水を入れたコンテナに浮かべられています。これは水に浮かべることで、外部からの衝撃を避け、魚同士の重さで身が傷まないようにしているのです。
 赤身魚は死んでから死後硬直にいたるまでも、硬直が解けて腐敗するまでの時間も速いので取り扱いには注意が必要です。
 アジやイワシなどの大衆魚を船で大量捕獲する場合は、一匹一匹活き絞めにする余裕がありません。そこで海水氷のイケスに入れて一気に腹の中まで冷やします。この方法だと魚体に傷がつかず、店頭で並べたときの見栄えもいいのですが、実際には網の中で圧死して身割れする危険があります。ストレスによるATPの減少も見逃せません。
 ところが釣魚の場合、一回に釣れるのはせいぜい3~4匹なので、すばやく首を切って血液を抜くことが可能です。
 船釣りならイケスに入れておいて帰港するときにまとめて絞めれば鮮度が保たれます。ただし、釣り上げるときにラインに絡まったり、鈎外しに手間取ったりで疲弊したアジは、口が開くことがあります。このようなアジはATPが枯渇して食味が格段に落ちるので、目印をつけて刺身用とは別に処理してください。
 魚は窒息死することでも食味が低下します。死ねば血が抜けなくなり、身に滞留した血液中の様々な酵素によって生臭くなるので、元気に生きている間に絞めて血抜きをしてください。腐敗しやすい血を抜いてしまえば美味しく食べることができますが、死後硬直を遅らせる効果まではありません。
 そこで神経を破壊し、鮮度のいい状態を長持ちさせるのが「神経締め」です。脊椎骨の各位置から出た神経が、その位置の筋肉の神経につながっているので、魚の全長を締めてしまう必要があります。これは、針金を通して行くと、先端が達した部分の筋肉が順番にビリビリと震えることでも確認できます。

神経絞めは鮮度保持の高等テクニック

 神経絞めは、業者さんが魚を絞めてからトラックに乗せ、刺身になって食卓に並ぶまでの、やや長い時間の鮮度保持を目的とした処理技術です。脳が死んだあと、まだ生きている脊髄がATPを消化しますが、この消費を抑えることで、死後硬直の始まりが遅くなり、新鮮さを長持ちさせる効果があります。
 神経絞めすると、身肉にたっぷりの栄養成分が残るため、なにも処理しないよりはるかに美味しく食べることができます。が、ただ栄養のムダ使いを押さえるだけなので、きちんと処理して、きちんと熟成したときのMAXの食味より、さらに美味しくなる訳ではありません。
 締めてすぐに家に持って帰って食べるなら必要な処理ではなく、また、わざわざ神経絞めしても、その後に冷やしすぎれば何の意味もありません。
 生き絞めで血液を抜くだけにしても、さらに神経絞めをするにしても、温度管理次第で食味は大きく変わってきます。神経絞め単体ではなく、絞めたあとの温度管理までをトータルで行ってこそ、狙い通りの効果を発揮できるのです。

やれば出来るぞ。神経絞め!

 身崩れさせないためにはスポンジマットがあれば完璧です。マットの上に乗せればバタバタ跳ねることもなく、硬いマナ板と違って身が弾けるのを防げます。魚が陸の上で尾をビビビッと激しく動かすと、これは無負荷状態のエンジンの空ブカシと同じで、海水の抵抗がないために回転が上がりすぎて身割れの原因になります。過大な運動によって筋肉中のATPが枯渇し、あっという間に死後硬直が始まってしまいます。

 手からの体温を伝えないための手袋、または薄手のスポンジを用意してください。生きた魚を直接手で握ってイケスに入れると、2~3日後か、早ければ数時間後には、握った手の形にウロコが浮き上がり、皮が白く変色することがあります。火傷をさせないよう、つよく握らないように注意して、エラ蓋の上の黒い模様を目印に、よく切れる刃物で思いっきりよく骨を断ち切ります。

 絞めるときも直接魚体に触れてはいけません。頭を折り下げ、背骨の上にある白い脊髄の中に、背骨に沿って針金を差し込んでください。針金の先が逸れたり、進まなくなったりするので少し苦労しますが、針金を上下に抜き差しして、すでに死んでいるはずの魚がビリビリと痙攣すれば成功です。脊髄まで完全に殺せば旨み成分の消費を抑えることができます。

脊髄は第二の脳

 脊髄には、大脳からの指示を体に伝える役目のほか、とっさのときに大脳で考えるまでもなく、反射的に体を動かせる原始的な中枢神経としての役割もあります。
 魚は、頸の骨を断ち切って絞めたつもりでいても、まだ脊髄の神経が生きていてエネルギーを消費します。絞めて30分くらい経ったころに、クーラーボックスの中で突然バタバタと暴れ出すのは、この脊髄が生きていたからに他なりません。筋肉が動けば体温も上昇し、ATPも消費してしまいます。そこで、死後も独立して働く脊髄をつぶして無駄なエネルギーの浪費を防ごうというのが神経絞めです。
 血抜きしただけなら、およそ4~10時間で死後硬直が始まって、解硬から腐敗へと進むところが、神経を破壊することで魚のゾンビー化を防ぎ、硬直を最大で24時間近く遅らせることが可能になります。直径約φ1mm、長さ30cm程度のステンレス鋼の針金を用意してください。ピアノ線でも大丈夫です。先端はカドを取るくらいで、決して尖らせないようにしてください。尖らせると脊髄から逸れてしまいます。

魚は死ぬと発熱する!?

 神経を破壊したら、エラが開くような感じで魚体を押し曲げ、血液を排出してから海水氷に漬けます。魚は死ぬと、筋肉中のグリコーゲンが乳酸に分解する過程で発熱し、そのままにしておくとわずか数分間で肉質が落ちてしまいます。これを防ぐため、神経抜きすると同時に海水氷に入れるのですが、あまり急激に冷やすとこんどは筋肉が収縮して死後硬直が早まり、せっかくの神経絞めが無駄になってしまいます。
 魚の体温と氷水の温度差が大きいほど硬直が速く進むので、神経抜きの後、キンキンに冷えた海水氷に長時間漬けることは避けてください。
 海水に氷を入れただけでは水温が下がりすぎることと、浸透圧勾配の大きさから肉質が変化するので、海水の半分くらいの量の真水を混ぜるといいでしょう。水は空気の数百倍の熱量を持っているので、海水よりも3℃以上低ければ大丈夫です。魚体の大きさに応じてそのまま5~10分ほど漬けておけば、発熱が押さえられると同時に、傷みやすくて雑味を含んだ血液が抜けて透明感のある身肉になります。

クーラーは氷詰めにしない

 あとはクーラーに入れて持って帰るだけですが、このときも氷の入れすぎはいけません。
 魚体に直接氷を接触させると氷焼けや、水分の浸透によって味が鈍るおそれがあります。とくに神経絞めは頸の切断面が大きいため、旨みが流出しやすいので、一匹ずつ濡れた新聞紙に包むか、またはビニール袋に入れた氷を新聞紙で包んで間接的に冷やすようにしてください。
 ATPの減少を最小限に食い止める温度は意外に高く、クーラー内の室温5~10℃がベストになります。これでいいのかと思うような温度ですが、氷漬けの場合より、表面の色つや、身肉の弾力性ともに良好に維持されます。
 自宅に持ち帰って食べた残りは冷蔵庫で保存します。もし手で持ち上げてみて、ダラリとせず、カチンと立つようなら死後硬直に入った証拠なので、0℃の氷温室に移してください。体表の雑菌の繁殖が抑えられるとともに、魚肉内の酵素が不活性になることで、硬直が解けるまでの時間を延ばすことができます。

活魚と鮮魚は違うのか?

活魚とは調理されることを前提に生きて泳いでいる魚のこと、または水槽で魚を生かしたまま輸送することをいいます。生きた状態から即殺して、まだ死後硬直が始まっていない状態の魚も活魚と呼ばれます。これに対して、海水氷などで絞められてから魚屋さんに入荷し、死後硬直が解けた状態の魚が鮮魚と呼ばれます。また、刺身になってしまえばいくら鮮度がよくても、加工品扱いになるので鮮魚とは呼ぶことは出来ません。